
「やる気がない」のではなく
「やる気を作る回路が傷んでいる」
アルツハイマー型認知症の症状を
脳の器質的変化から解説
介護の現場では次のような場面によく出会います。以前は好きだった趣味に誘っても乗ってこない。一日中ぼんやり座っていて声をかけないと動かない。同じことを何度も聞く。約束したことを覚えていない。
こうした姿を私たちは、つい性格や気分の問題として捉えがちです。「病気の症状だから仕方がない」「拒否している」「元々の性格の問題」といった解釈です。しかしアルツハイマー型認知症では、その多くが神経細胞の変性・脱落という器質的な変化の結果として説明できます。
この記事では、一般的な認知症の研修で触れる側頭葉内側の海馬の萎縮という臨床上の状態説明だけでなく、症状を脳の変化と結びつけて解説し、それが日々のケアと組織の運営に何を求めるのかを考えます。介護職員の方だけでなく、施設や法人の運営に携わる方にも読んでいただきたい内容です。
第1章
脳の中で何が起きているのか
1 変化は一定の順序で広がる
アルツハイマー型認知症の脳では、アミロイドβというたんぱく質の蓄積と、タウたんぱく質の異常な蓄積(神経原線維変化)が進み、神経細胞が失われていきます。変化は脳全体で一斉に起こるのではなく、おおむね次の順序で広がるのが特徴です。
・初期:海馬とその周辺(嗅内皮質など)から始まる
・中期:側頭葉や頭頂葉へ広がる
・後期:前頭葉を含む広い範囲へ及ぶ
さらに、記憶や注意に関わるアセチルコリン系の神経も障害されます。この病気の薬物療法にコリンエステラーゼ阻害薬が使われるのは、この変化が背景にあるためです。
2 障害された部位と現場で見える症状
障害される部位と現場で目にする症状は、次のように対応しています。
・海馬・嗅内皮質:新しいことが覚えられない、同じ話を繰り返す(短期記憶障害)
・側頭葉・頭頂葉:時間や場所が分からない、道に迷う、物の位置関係がつかめない(見当識障害・視空間認識障害)
・頭頂葉・後頭葉:着替えや食事の動作がうまくいかない(失認・実行機能障害)
・前頭葉(進行に伴って):段取りを立てられない、判断力の低下、抑えが利きにくくなる
ここで大切なのは、初期に目立つもの忘れは海馬の障害の表れであって、本人の注意不足や努力不足ではないという点です。「さっき言いましたよね」という指摘は(ベテランの介護職員さんが言う事は無いと思っていますが)、脳の仕組みの上ではそもそも記憶を固定できない人に記憶の再生を求めることになってしまいます。
第2章
意欲の低下を脳から見る
1 意欲は「良いことが起こりそうだ」
という予測から生まれる
アルツハイマー型認知症の方に見られる無気力(いわゆるアパシーには前頭葉の前部帯状皮質から、側坐核を含む線条体へとつながる回路が関わるとされています。)は、抑うつとは別の症状として整理されており、非常に頻度の高い症状です。この症状を理解するポイントとなるのが、脳の報酬系と呼ばれる回路です。
私たちが行動を起こすとき、脳の中では次のようなことが起きています。
・中脳の腹側被蓋野から側坐核へドパミンが送られる(側坐核:快楽や報酬への期待を司る中心的な部位)
・側坐核が「この行動をすれば良いことがありそうだ」という期待(欲求)を生み出す
・海馬が「どんな状況で、過去にどんな良いことがあったか」という記憶や文脈の情報を提供する
つまり意欲とは、過去の経験の記憶(海馬)と報酬への期待(報酬系)が連携して作られるものです。
アルツハイマー型認知症では、海馬の萎縮によって「これをしたら楽しかった」「褒められた」という記憶との結びつきが弱くなります。加えて、側坐核を含む報酬系そのものにも変化が及ぶことが、脳画像を用いた研究で示されています。その結果、「やれば良いことがある」という未来への期待を組み立てにくくなり、行動を始める力が落ちていきます。
2 「楽しめなくなった」とは限らない
ここは誤解しやすい点です。神経科学では、報酬を「期待して求める力」と実際に「味わって快く感じる力」は別の仕組みとして扱われることがあります。活動に乗ってこない方について、楽しむ力そのものが失われたとは限りません。きっかけと期待を作る力が落ちているだけで、始めてしまえば楽しめる場合があります。レクリエーションに参加してもらおうと声をかけて、相手が乗り気ではないのにもかかわらず、しぶしぶ参加した結果ものすごく楽しんでいた様子を見たことがある介護職員の方は少なくないと思います。
この違いは、ケアの方向を大きく変えます。ただし、この区別は動物実験に由来する部分が大きく、認知症の方への当てはめには仮説的な面が残ることもあわせて書き添えておきます。
第3章
ケアへの示唆
1 「誘う」より「始まっている状態を作る」
「やりませんか?」と意欲に訴える誘い方は、弱った回路にいちばん負荷をかけます。道具を目の前に置く、隣で一緒に手を動かし始めるなど、期待を持たなくても参加できる状況を作るほうが有効な場合があります。(過度な押し付けや強引に車いすを移動するのは厳禁です)
2 過去の記憶ではなく「今の快」を使う
新しい報酬を学習することは難しくなっています。一方で香り、味、音楽、触れ合いなど、その場で得られる快は残りやすいとされます。若い頃の記憶と結びついた刺激は、特に反応を引き出しやすいことがあります。入居者さんが若いころトレンドだった曲を流して心地よい空間を演出するのはこういった背景があります。
3 「無気力」の一言で片づけない
記録に「意欲低下」「拒否」と書くだけでは次の手がかりが残りません。たとえば「声かけだけでは始められないが、道具を渡すと10分続いた」のように、どういう条件のときに動けたかを記録することが次のケアの材料になります。時間を置いてアプローチを行った、他の職員から声掛けを行ったなど、参加を否定したときから参加したところまでを記録に残すことが、持続的で次につながるケアとなります。
4 抑えが利きにくくなる変化にも目を向ける
前頭葉の働きが落ちると目の前の刺激、たとえば食べ物などへの反応を抑えにくくなることがあります。過食や特定の行動へのこだわりは、性格ではなく脳の変化の表れとして捉え直す視点が必要です。咀嚼を行わずに食事を丸飲みしてしまう方に対しては、食事を小分けにして提供することが窒息の予防という視点からも有効です。(私の経験上、大体の施設では行っていると思いますが、言語聴覚士がいる場合は評価をしてもらうことが好ましいですし、いない場合は嚥下外来の受診も視野に入れると安心です。)
第4章
運営層に伝えたいこと
脳の変化を理解することは、現場の心構えの話にとどまりません。組織の設計に直結します。
1 研修
「認知症の方の気持ちに寄り添う」という情緒的な研修だけでは、現場は「なぜそうなるのか」を説明できません。症状と脳の働きの対応を、職員が共通の言葉として持てる形で教える必要があります。そのためには指導に当たる管理職の方々は、組織のマネジメントや脳科学をある程度学習し、指導を行う時には抽象的な内容だけでなく、明確なエビデンスを持って具体的に言語化された指導を行える必要があります。
2 評価の設計
活動への参加率だけを指標にすると、意欲低下のある方への働きかけが「成果の出ない仕事」に見え、関わりの回避や現場の疲弊につながります。どういう工夫で関われたかという過程を評価する設計が要ります。別の記事でも触れたことがありますが、評価する設計、制度を作っただけでは不十分で、取り組む前と後に同じ評価基準で評価を行うことで、精度の高い効果測定が行えます。
3 記録の様式
条件つきの観察を残せる記録の様式は、ケアの質と職員間の引き継ぎを支えます。「できた」「できなかった」の二択ではなく、「何があればできたか」を書くことをオペレーションに組み込むだけでも、現場の観察の質は変わります。
おわりに:責める関わりから、始め方を考える関わりへ
アルツハイマー型認知症の方の行動は、多くの場合「その人が変わった」のではなく「行動を支える脳の回路が傷みつつある」ことの表れです。ここを理解できるかどうかで、同じ場面での関わり方は変わります。
「できない」を責める関わりから、「どうすれば始められるか」を考える関わりへ。その土台として脳の知識が役に立つと考えています。
病気の特性や年齢的な特徴を考えると、持続的もしくは段階的に症状が変わる事も多々あります。昨日までのアプローチがある日突然通用しなくなるケースも多々あります。
なお、脳画像で示される所見はあくまで集団としての傾向であり、実際の症状の出方には大きな個人差があります。特に高齢者介護の現場では、脳血管性認知症との併発事例も多く目にしてきました。目の前のお一人お一人を観察することが、最後は何より大切です。
参考にした文献:(いずれも英語の文献です)
軽度認知障害、アルツハイマー病、前頭側頭型認知症、パーキンソン病などで、報酬処理がどう変わるかをまとめた総説です。
アパシーはアルツハイマー型認知症で最も多い精神・行動症状で、脳画像の所見は前部帯状皮質を含む前頭葉と線条体の回路を示していることを記載してきます。ただし結果にはばらつきがあり、解釈が難しいことも同じ要旨に書かれています。
黒澤 琥珀